経営理念・ごあいさつ
グループ経営理念
ミッション
いつも相手の立場で考えて行動する「Your Company」であるために、私たちは「ありがとう」の気持ちを忘れません。互いに信頼し合えるパートナーの存在があったから、私たちは医療・保健・福祉・介護・サービスの分野で多くの実績を築くことができました。この感謝の心は、創業時に掲げた「SHIP」理念とともに私たちがずっと大切にしてきた原点です。同じ想いを共有するシップヘルスケアグループとともに、今後も「生命を守る人の環境づくり」に貢献し続けます。
基本姿勢
「至誠惻怛」とは、幕末に備中松山藩の財政危機を救い、藩政改革を成し遂げた山田方谷が河井継之助に贈った言葉です。「至誠」はまごころ、「惻怛」はいたみ悲しむ心を表し、この心を兼ね備えて生きることが人間としての生きる基本姿勢であり、当社グループの基本姿勢です。
ごあいさつ
1992年、当社の前身であるグリーンホスピタルサプライは、「医療」「保健」「福祉」「介護」「サービス」の分野に特化した企業としてスタートしました。
My Companyではなく、Your Companyを目指そうと決め、社員皆で共有する理念として『SHIP』を掲げました。
この『SHIP』は、Sincere(誠実な心)、Humanity(「情」の心)、Innovation(革新者の気概)、PartnerSHIP(パートナーシップ精神)の頭文字と、いつまでも帆に風を受けて航海を続ける船(ship)でありたい、という気持ちに由来しています。
この理念を共有し、理想的なYour Companyを築き上げる。これが企業としてのビジョンであり、社員一人ひとりのアイデンティティでもあるのです。
社会環境の変化は激しいですが、大切なものはいつも普遍であると思います。
その大切なものとは、互いに信頼し、協力し合うこと、そして違いを尊重し、共鳴しつつ、伸びていくことだと考えます。
以下、時代を超えて、大切なものを表す言葉を記し、ご挨拶とさせていただきます。
代表取締役会長
古川 國久
代表取締役社長
大橋 太
山田 方谷の至誠惻怛からSHIP理念へ
まごころ(至誠)があれば、やさしく(仁)なれます。
そして、目上にはまことを尽くし、目下にはいつくしみをもって接するのです。
心の持ち方をこうすれば、物事をうまく運ぶことができると言います。
つまり、この気持ちで生きることが、人としての基本であり、正しい道なのです。
上記の言葉は幕末に備中松山藩の財政危機を救い、藩政改革を成し遂げた山田 方谷が河井 継之助に贈った言葉です。
財政危機を救い、藩政改革を成就させたものは何だったのでしょうか。それは、なによりも経済がわかっていたということです。
また、領民(国民)を富ませることが、国を富ませ、活力を生むという哲学があったからです。
さらに陽明学を誠意中心主義に結晶させ、誠意を我が道と思い定めて一筋に貫いたことにあります。 当社も1992年の創業より、「医療」「保健」「福祉」「介護」「サービス」における分野でのビジネスを通じて、 数多くの関係各位とお取引きいただき、今日の私たちがあります。その感謝の念を忘れることのないよう、 山田 方谷が「誠意中心主義」という考え方を基盤としたように、私たちも個々人が自分の考えをしっかりと持ち、 お客さまには誠意を持って奉仕し、社会の基盤をしっかり見直し、それを再認識して発展させていきたいと考えております。
※山田 方谷
山田 方谷は幕末、15代徳川慶喜将軍の主席老中である備中松山藩主板倉 勝静を助けながら、「貧乏板倉(備中松山藩)」と言われた藩をわずか8年で、財政再建を行うとともに、教育改革、軍政改革等を行った、政治家・実践派の財政家である。また、板倉 勝静が主席老中になると、江戸へ出て、第15代徳川 慶喜将軍を助け、「大政奉還」の上奏文などを起草した江戸幕府の政治顧問であった。また、一方で、大正天皇の侍講である三島中洲、『峠』(司馬 遼太郎著)の主人公である河井 継之助、宮中顧問官で明治三大文宗の一人である漢文学の泰斗川田 甕江ら優れた人材を育てた教育者であり、幕末期を代表する陽明学者であった。(野島 透著『山田 方谷に学ぶ財政改革』より)
※河井 継之助
『峠』(司馬 遼太郎著)の主人公である河井 継之助が江戸留学や山田 方谷の下で陽明学を学んだのは、幕末動乱期、長岡藩をどうもっていくか探るためであり、藩を幕府と離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立て変えようとした。ただ困ったことは、時代の方が急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。その勢力が小千谷に出向き、西軍総監岩村 精一郎に会い、猶予を請うたが、容れられなかった。この会談の決裂により、東軍として参戦し、督戦中、流れ弾にあたり、負傷し、42歳で生涯をとじた。(司馬 遼太郎著『峠』より)